Friday, August 1, 2008

青春の影(2008年7月15日 午前1時40分)

今まで自転車に微かにでも関わることを書いてきた本ブログですが、今回だけは全く関係がありません。まさしくぼやきかも知れません。自転車関連を期待されているかたは飛ばしてください。
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明日8月2日に夏の甲子園が始まる。第90回記念大会の今年は千葉・埼玉・神奈川・愛知・大阪・兵庫の6府県が2校出場することになり、計55校の戦いとなる。
また熱い夏が始まる。



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出張先でほぼ毎日夕飯を食いに通っている居酒屋では、いつも通りに松田聖子を筆頭とする80年代の歌謡曲が流れていた。


ホテルに帰る前にコンビニに寄った。いつも通りに105円のパックの麦茶を買った。

いつもであればそのまま店を後にするのであるが、その日は何故か雑誌のコーナーに足が向いた。別に目的があったわけではない。ぼんやりと陳列されている表紙を眺めて、「さあ、店を出ようか。」というところでスポーツ新聞の見出しが目に入った。一面には見覚えのある、いや忘れられないスカイブルーのユニフォームが写っていた。脇には『石田さん急死』の文字があった。
目が釘付けになった。


私は桑田・清原の所謂KKコンビと同学年になる。ちょっとした自慢だ。私の世代でこの二人を知らないヒトはまずいない。

1983年夏、PL学園は1年生のKKコンビを擁し甲子園を制した。
『PL』、その名は既に全国に轟いていたが、その年はあまり注目されてはいなかった。この年の注目といえば、なんといっても池田高校である。
夏春夏の3季連続Vを目指すその池田高校のエース水野がPL打線に打ち込まれてぼーぜんとしている表情は多くの高校野球ファンの記憶に残っていることと思う。注目度の高かった大会で優勝したことによりKKコンビの名前は高校野球にそれほど興味を持っていないヒトにも知れるところとなった。

1985年夏、すでに全国区の認知度を得た3年生のKKコンビは前評判通り再び甲子園を制した。

高校野球のスーパースターであった彼らはプロ野球でも確実に実績を積み上げてスターとして活躍してきた。同年代のひとつの星だ。いつまでもがんばっていてほしいと思っていたが桑田は今年引退してしまった。残念だが仕方がない。その分も清原にはまだまだがんばって欲しいと思う。
私は彼らと同学年であることをあちこちで強調して自慢している。それは私が彼らのファンであるからだけではない。彼らをクローズアップすればするほど際立つひとつの事実がある。私が自慢したいのは実はそちらのほうであったりする。


上記のKKコンビの夏の甲子園の記録をもう一度読み返して欲しい。彼らは1984年(2年生のとき)も優勝していれば、”夏の甲子園3連覇のエースと4番”という不滅の大記録を打ち立てることができたのである。でもそれは叶わなかった。その年のPL学園は準優勝に終わっている。KKコンビの夏に土をつけた唯一の高校が存在した。






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1984年夏、甲子園決勝戦の日。私は自宅のリビングでテレビの前にいた。


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前年大旋風を巻き起こして優勝したKKコンビを擁するPL学園は順当に勝ち上がってきた。
対するは取手二高、茨城県のチームだ。知名度は極めて低い。初めて名前を聞いたヒトも多かったに違いない。水色のユニフォームの胸には漢字で『取手二高』と大書してあり、文字の周りはオレンジ色で縁取りがしてある。”高”の文字まで入れるセンスと、水色とオレンジのミスマッチ、誰がデザインしたかは知らないが、はっきり言って”ダサい”。当時の茨城県そのもののダサさを代表するようなユニフォームであった。


当時、夏の甲子園の茨城予選決勝では、試合後の講評で茨城県高野連の会長が毎年同じ事を言っていた。
「今年こそ、茨城県勢悲願の甲子園ベスト8を・・・・。」
それまで茨城は甲子園でベスト8まで勝ち上がったことのない数少ない県のひとつだったのである。
そしてその時、私は茨城県民であり、取手市民であった。

ほぼ全国の人たちがKKの、PLの連覇を予想&期待する中で、取手二高を応援していた数少ない存在だった。


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にわか雨かなにかで、多少試合開始が遅れたような気がする(もしかしたら記憶違いかもしれない)。
初回、取手二打線が桑田を捉えた。センターに抜ける打球。ホームに帰ってくるランナー。取手二が先制した。
興奮した。


高校野球ファンの方なら覚えていると思うが、実はこの年のPLと取手二は”東西の横綱”と言われてどちらも前評判は非常に高かった。2校は練習試合も行っている。前年の活躍でPLだけが突出している印象が強いが、取手二も負けず劣らずの実力を持っていたのである。ただ取手二に対する”一般のヒト”の知名度・認知度は極めて低かった。


実は私も心の中では「やっぱりPLには敵わないんじゃないかなぁ。ここで負けるのがパターンだよな。」などと思っていたので、この先制は大きい。ラッキーな点の取り方ではなくて明らかに”打った”のである。
「ひょっとしたらいけるのか?」


この年の取手二の特徴は”強打”と”エース石田”である。
とにかく良く打った。甲子園では初戦からパカパカと打った。打って、打って打ちまくった。”打高投低”といわれたこの時代、池田高校の”やまびこ打線”に代表される打力に優れたチームが勝った。このときの取手二もとにかく打った。
一方でこの年の取手二には絶対的な投手石田がいた。コントロールの良さが売りで右打者の外角低めに決まるカーブは当時の高校生は誰も打てなかった。決勝で対戦した清原も2三振を喫している。
この2つを武器に取手二は勝ち上がったのである。
”強打”と”好投手”。言葉に書いてしまうとPLと取手二は同じようなチームになってしまうが、この2チームは明らかに性格の異なるチームであった。PLは緻密で真面目、都会のチームとして洗練された感もあった。対して取手二は自由奔放というかやりたい放題というか、「オレ達、野球やってなかったらグレてたかも知れないもんね。」という雰囲気を漂わせるナインと、勝利インタビューでは茨城弁丸出しであさっての方向を向いてしゃべっている監督。チーム全体から滲み出てくるモノ、それがこの2チームは全く違った。



石田が良く投げ、取手二が終始先行するかたちでゲームは進んだ。がついに(確か)8回に追いつかれてしまう。
「ああ、これまでか、これはPLがサヨナラのパターンだ。」
取手二の勝利を願いつつも私の心の中ではそんなあきらめムードが漂いつつあった。

私の良く当たる悪い予想に反して試合は延長に入った。10回、取手二の攻撃。
ポコポコとランナーが2人出た。バッターはキャッチャーの中島。桑田の投じたその1球は高めの明らかなボール球。中島は強引な大根切りでそのボールを叩いた。打球は意外と伸びた、見る見る伸びた、レフトスタンドに突き刺さった。私は驚き、興奮はピークに達し、勝利を確信した。

その後さらに1点を追加した取手二は8-4でPLを下し、深紅の大優勝旗はついに茨城に、取手にやって来た。
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KKコンビのPLを破ったことで、取手二の知名度は一気に全国区に達した。実はKKのPLは選抜では優勝していない(1984年春:準優勝、1985年春:準決勝敗退)ので、甲子園で彼らが負けたのは取手二だけではないのだが、取手二だけがその名を全国に轟かした。それだけ夏の甲子園は熱い。



大学に進んだ私はこの”e-WADACHI”へと続く国内旅行を始めた(当時はサイクリストではなくバックパッカー)。
行く先で交わされる言葉はいつもこうだった:
「どこから来たの?」
私:「今住んでいるのは東京ですが、出身は茨城です。」
「茨城のどこ?」
私:「取手です。」
「トリデ?ああ、あの取手二高の・・・。」
10年間以上は、”取手二高の(ある)取手”というと全国のヒトに通じた。どんな場所かは知らなくてもその”トリデ”という名前は皆知っていた。


その話が出るたびに私は取手市民であったことを少しだけ自慢に思った。取手二の引き立て役に回った最強の敵役KKコンビと同学年であることを少しだけ自慢に思った。それらが日本中のヒトの記憶にあることは、何故か私自身の青春時代が日本中のヒトの記憶にあり、認められているような気がした。
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コンビニで売られていたスポーツ新聞の一面を飾っていたのは、あの1984年の夏の取手二の優勝シーンの写真であった。亡くなったのはエース石田。現在は横浜ベイスターズでバッティングピッチャーをやっていたそうだ。
高校時代からムラッ気のありそうな性格に見えた。高校卒業後早稲田に進み、横浜に入団したところまでは知っていたが、プロ野球選手としてその名を聞いたことはなかった。すっかり忘れていたその名前を一面に見たとき、当時の記憶がまざまざとよみがえった。その夏の甲子園だけではない、その当時の全てがである。

良く見ると彼の死の記事を一面に載せているのは一誌だけではない。複数誌存在していた。あとで話を聞くとテレビでもそのニュースは大きく取り上げられていたそうである。大相撲の本場所中でもあり、北京オリンピックも間近である。現在は裏方のひとりにしか過ぎない彼の死がこれほどまでに大きく取り上げられるのは異常なことだ。スポーツメディアの現場の要職についている人たちはきっとKKと、取手二と、私と同じ世代なのだろう。彼らは(今私がこうして書いているように)どうしても石田の死を大きく報道したかったに違いない。ひょっとしたら今年の甲子園の中継でも事あるごとに石田と取手二とKKの話題が出るかもしれない。



コンビニではその場にあるだけの種類のスポーツ新聞を買った。葬儀が行われた横浜の斎場に、個人的には全く見ず知らずの石田に対して弔電を打った。




彼の死は本当にショックだった。どこかにまだ微かにあるかもしれないと思っていた私の青春も終わったのだなと知った。

もう普通にオジサンと呼ばれるトシになったのである。